学びが続きます。
本日はカンタオールのダビ・ラゴス、ギタリストのアルフレッド・ラゴスのクルシージョでした。森田志保さんのステージ(ほんとうに素晴らしかった)の翌日の今日、三人の穏やかな、でも熱い想いと、フラメンコの歴史に関する知識の深さに触れることができた、貴重な時間となりました。
三千年に渡るフラメンコの歴史を紐解く、ダビのレクチャー。音源や自らの歌、アルフレッドのギターでわかりやすくお話が進みます。
これは時間をかけて、きちんと私なりに整理したいので、歴史に関しては今回はさておき。
caña カーニャ
なぜだか私、ご縁が多いこの曲。カンテソロや踊り(ひとつも思い出せない。。。)で、向き合うことがわりとありました。
昨日の森田さんのステージでも、今日のクルシージョでも登場したカーニャ。
わたしの中では宗教的なイメージが強くあります。
今日のダビのお話を聞いて、それは間違いではなかったんだと思いました。
カーニャには独特の、ラメントと呼ばれる部分があります。
イーーーと伸ばすところです。
踊りでは、この部分をゆっくりと歌われることが多いですが、もともとは(今でもカンテソロでは)レトラのリズムと変わりません。そして、間も空きません。
そしてカンテソロでも、踊りでも、ポロという歌が入ることが多くあります。
polo ポロ
これは、リブレにすることもあるし、踊りでははけ歌に使われることもあります。(マチョとは別物)
ダビによると、カーニャにポロを入れることはできるけど、ポロと言ったら、ポロだけとのことです。そして、それぞれラメントがつきますが
カーニャは6つ、ポロは5つ。(歌の終わりにつくときは3つ)
これは、イーの数です。(エーとか、アーとか)
巨匠二人のカーニャとポロ。
ラファエル・ロメロのカーニャとポロ。
ay alza y viva Ronda
reina de los cielos
と、その後のはポロです。
そしてニーニョ・デ・アルマデンのポロ。
メロディーはソレアに似ています。でも、ソレアよりももっと、聖歌のような印象があります。
ラメントとは嘆きのことですが、嘆きというよりも、慈悲のような。
フラメンコの歴史のお話の中で、ペテネーラをダビが歌うのを聴いて、泣けてしまい、
ダビとアルフレッドが「悲しいよね。そう、悲しいんだよ。」
と言ってくれました。アルフレッドは私が歌詞を理解して泣いてるんだと思ったみたいだったけど、正直歌詞が頭に入る前に、わたしの細胞が悲しんでる感じでした。
理解よりも先に涙が出る感じ。そしてどうしようもなく、悲しい。
それでも、今日のクルシージョで、なぜ、そう感じるのかがわかったような気がします。
ダビは三千年もの歴史と向き合い、今、歌っている。
そしてその歌声は、どこか聖歌のようで。鳥や川の流れや木漏れ日のようで。
どうしようもない悲しみを嘆くのでなく、包み込み、吸い上げて、天に還すような。
ダビ新作のCDタイトルが
「HODIERNO」
hodierno って、どういう意味?と聞くことができて(なんと贅沢なんでしょう)
「Hoyのことだよ。」と教えてくれました。(ラテン語なのかな?昔のことばと言ってました)
遠い、遠い、歴史があって、今がある。
今があるから、あなたに会える。
すごいね。
歴史は難しい。フラメンコはスペインだけでなく、たくさんの文化や争いや宗教が入り混じっているので、さらに難しい。
でも、そこにも人がいたのです。私たちと同じように喜びや悲しみを抱いてきたその人たちの想いをダビは感じようとしているのではないかな。
そして、今があるということも。
遠い異国の地で、学ぼうとしている日本の私たちに、それらを魅せてくれる。
カーニャからそれちゃったな。
あなたの「今」を、心から応援しています。