フラメンコには、強い信仰心を感じさせるものが多くあります。
”Dios mio” (私の信じる)神様。よく、歌詞に出てきます。
歌詞を理解するうえで、難しいなと思うところでもあります。聖書を学んだらわかるのかな、と思うけれども至ってません。
私は特別な信仰はもっていないけれど、
例えばタラントやシギリージャで、想像も超えた悲しみを歌うとき、なんというか、信仰に似た祈りのようなものを感じることがあります。
それは、私の中の信仰心。
炭鉱の事故で、友が死んだ。
まだ熱いその亡骸のそばに。
どうか、このままいさせておくれ。
どうかこのまま、この痛みとともに。
歌うとき、踊るとき、そして観るとき、この意味をどう消化できるでしょうか。
ちょうど、ローマ教皇が訪日したニュースを観ていました。
長崎でのスピーチです。
“ここにおられるみなさんの中には、カトリック信者ではない皆さんもおられるでしょう。
しかし私たちは全員が祈ることができると信じています。
主よ。私をあなたの平和の道具としてください。
苦しみがあるところに愛を。
争いがあるところに許しを。
疑いがあるところに信仰を。
絶望があるところに希望を。
闇に光を。
悲しみのあるところに喜びを。”
誰もが平和や愛を祈ることができる。それは信仰と呼べるのではないでしょうか。
音楽や芸術がなぜあるのか、そして必要とされているのか。
「祈り」がそこにあるからではないでしょうかね。
現在のローマ教皇はアルゼンチン出身で、スピーチはスペイン語でした。
そのスペイン語がとても美しく感じたので、スペイン語でも記載します。
Señor, haz de mi un instrumento de tu paz.
Donde hay oído, ponga yo el amor.
Donde hay ofensa , ponga yo el perdón.
Donde hay duda, ponga yo la Fe.
Donde hay desesperación, ponga yo la esperanza.
Donde hay tinieblas, ponga yo la luz.
Donde hay tristeza, ponga yo la alegría.
私の中の「祈り」を信じようと思います。