先日、サラ・プランタでフラメンコと三位一体について学んできました。
講師の先生はパコ・イグレシアスとカンテの巨匠エンリケ”エル エストレメニョ” のお二人です。
巨匠の「パパ感」で(教皇ではありません)、すっかり若返ったパコさん。
エンリケに
「彼女、歌も歌うんだよ。」
と、紹介してくれました。(覚えていてくれたのねー!!)
それぞれのヌメロと、パルマというプログラムで(なんとなく)始まったその日のクラス。
まずは「アレグリアス」ということで
「じゃ、うたって。」と、エンリケさん。
(え?わたし?)
「カポはここでいい?」と、パコさん。
わたし、歌いました。巨匠の隣で。パコさんのギターで。
何を歌おうか考える時間もなく、すーっと出てきたのがこの歌でした。
”アレグリアスを歌ったよ。
あなたが歌っていたように。
アレグリアスを歌ったよ。
あなたの歌をうっとりして聴いていたの。
それは私の生きがいだった。
あなたの歌に恋してた。
それは私の人生だった。”
エンリケ先生は、歌に合うパルマを指導します。
そして、エスコビージャ、ファルセータ、ブレリアに変わるとき、それぞれのパルマについて実践しながら丁寧に教えてくれました。
さらに、タンゴ、ソレア、シギリージャ、ティエントについても同様に。
ものすごく、ものすごく、実りがあり、まだ消化しきれていませんが、学びの多い一時間でした。そして、そこで学べたのも、今までの自分があったからだなと思いました。
やはり、自分で疑問に思い、試行錯誤し、考えつくした道程があるからこそ、二人の言葉が身にも心にも染みたのだと思うのです。
多くの学びのことや、エンリケ、パコ、二人の歴史とか、スペインとか、フラメンコとか、いろいろ考えていたら、思い出した言葉がありました。
「しょうがない、と肩を落とすことと
しょうがいないなあ、とため息をつくことは
まったくニュアンスが違う。しょうがないなあ、の方はどちらかというと母性的な味わいがある。」
男の人にも母性があります。
もちろん、どんな人にでも、パコもエンリケも、全力で教えてくれるでしょうし、ステージでも支えてくれるでしょう。でも、私だったら、
しょうがないなあと、ため息をつかれたいな。
そうなるのには、どうしたらいいかしら。
そしてふと、思い立って、
お豆を煮てみました。
金時豆。工程は手もかからないのですが、時間がかかるので、途中でお鍋のそばにいられなかったりすると二日かかります。
さらに私しかたべない。
でも、なんとなく、丁寧なことがしたくて、自分のために煮たお豆。
出来上がりは上々で、おいしくできあがりました。
さて。
丁寧に自分を扱うことは、誰かにもそれができる気がするし、誰かに同じように丁寧に扱ってもらえることもあると思うのです。
お豆が煮えるからといって、フラメンコは上手にはならないけど、
自分のためにお豆を煮れる私は、しょうがいないなあとため息をつきながら、受け入れてもらえるかもしれない。
と、金時豆をたべながら思うのでした。
このクラスで学んだことも、すこしずつお伝えしたいと思っています。
セビジャーナスのカウントの仕方とか(!)
しょうがいないなあと、ため息をつかれるようなあなたを心から応援しています。