今日、娘が幼稚園から帰ってきて、
大きい地震があった日だから、こうやって目をつぶったんだよ。
と、教えてくれました。(黙とうをしたのだと思います。)
そして、「ままは地震の時、子供だったの?」
と聞かれたので、
(もちろん)大人だったよ、と答えました。
9年前、大人のわたしはその日のライブの準備中でした。
フラメンコカンテライブの初企画。本番は数時間後です。
その日は中止とし、お店への連絡や、お客様への連絡、共演者の帰路や宿泊など
状況がよくわからないまま、急いで行いました。
案外、こういう時ほど冷静で、あまり不安ではなかったのですが
とりあえずのことが済み、ふと我に返ると
自宅は?家族は?思い出したかのように不安が募ったのを覚えています。
そして日がたち、
多くの方がそうであったように
「自分にできることはなんだろう。」
と、考えていました。
今の新型ウィルスの状況と、全く違うけれども
この、春を感じさせる季節と相まって、その時と同じような気持ちが沸き上がります。
思えば9年前のあの頃から、
わたしにできることは何なのか、何かや、誰かのために何ができるのか。
思い続けているような気がします。
そして、9年大人になった今の私は
「わたし」を活かして生きていこう。
わたしの、中身。能力、性質、経験。それらを活かして、つまりは仕事として生きていこう。
必要な人に届くように。
そう思っています。
実は、昨年からそれらを踏まえて企画していることが、この春から動き出せそうです。
(近日ご紹介します!)
「わたし」を活かしたい。でもそれには「あなた」が活かされていることが必要。
ひとには人が必要。
でも。
ひとにはひとりでいることも必要だと思うのです。
孤独と向き合い、考え抜いた時、人とのつながりや自然の美しさ、強さや弱さ、やさしさや悲しみに気づき、そのために自分ができることを見つけられるのかも知れません。
ちょうど、今日、車の中で聴いていたラジオで朗読されていた詩です。
長田弘「空の下」 抜粋です。
黙る。そして、静けさを集める。
こころの籠を、静けさで一杯にする。
そうやって、時間をきれいにする。
独りでいることができなくてはできない。
静けさのなかには、ひとの
語ることのできない意味がある。
言葉をもたないものらが語る言葉がある。
独りでいることができなくてはいけない。
空の青さが語る。賢いクモが語る。
記憶が語る。懐かしい死者たちが語る。
何物もけっして無くなってしまわない。
独りでいることができなくてはいけない。
この世はうつくしいと言えないかもしれない。
幼い時には、しかしわからなかった。
この世には、独りでいることができて、
初めてできることがある。ひとは
祈ることができるのだ。
あなたの明日が、穏やかで美しいものでありますように。